法然との新たな出会い
法然との新たな出会い
岡村貴句男 [著]
2016.11 四六判 / 204頁 ISBN: 9784884698874
浄土宗の宗祖といわれる法然の行状を、彼を取り巻く人々が記録した日記や伝記、消息文
などから俯瞰すると、宗派で作成された伝記とは異なった法然像が見えてくる。
伝記の法然は、庶民に働きかけて専修念仏を積極的に広めた功績、および専修念仏に対する弾圧という法難の光と影が大きく取り沙汰されている。しかし、比叡山を下って円照に出会ってからの法然には、積極的な布教の形跡をうかがい知ることができない。書簡類にしても、法然自筆の文献は見当たらず、専修念仏を広めたという法然が、辻説法のように庶民の前で説いたという記録もなく、他人に執筆させて撰述した文献が残っているだけである。法難においても、法然の周りで人々が右往左往するだけで、法然自身には何ら動きが見えない。
とはいえ、今日に残る法然の偉大な業績は、従来の浄土教から取捨選択の末に阿弥陀一仏の念仏を宣言した『選択集』の撰述にある。その一方で、法然の門人から派生した「過激の徒」が、『選択集』の中から法然と同じように取捨選択して、大衆に迎合する言葉を選び、これを広宣手段として念仏を全国に広めた。この行為は、個を維持しつつ組織の中で存在を無にするという、通憲流聖を意図して門人を導こうとした法然の行為とは異なった方法で功績を遺す結果を招いた。すなわち、法然の専売特許ともいわれている専修念仏を世間に広めたのは、法然その人ではなく、当時の権勢から排除されていた過激派分子なのである。法然自身は確固とした持戒僧で、「偏依善導」を終生貫いた人であった。
そうして現在、平安時代後期を思わせる災害と戦禍の社会状況の中で、無差別に蔓延する個を無視した社会制度と遊興との狭間に生きる我々に課せられるのは、確立した個人を尊重しつつ違いを理解して、共に有意義な生活を営む知恵を再構築して実行することである。それには、強者が自己主張する正義を弱者に強要するのではなく、通憲流の教義でもある、十分な知識と知恵をもって、自らの意志で自らの感情や欲望を抑えるという聖覚が主張する「自制」の心が欠かせない。
再び『法句経』の言葉が思い出される。「世の中に怨みは怨みにて息むことはない。怨み無くして息む、此の法は変わることがない」「然るに他の人々は、我々は世の中に於て自制を要す、と悟らず、人若し斯く悟れば其がために争いは息む」。法然の行状を含めて噛みしめたい言葉である。明恵いわく、「釈尊に帰れ」。
法然の生き方が、現在の我々の生きる糧になり、それが少しでも発展する方向に進むようであれば、我々にも明るい将来がまっている。これが実行できるのは、個人に与えられる躾や教育および仏の教えを教義として維持し続ける組織であることは間違いない。緊急課題としては、今を生きる個人それぞれの智慧ある自制心が必要ではないだろうか。